เข้าสู่ระบบ翌朝、病室のカーテンの隙間から、白い光が差し込んでいた。 朔弥さんはベッド脇の椅子で眠っている。 会社へ戻るよう言ったのに、役員会の資料を確認したあとも帰らなかった。私の指のあいだに、朔弥さんの指が一本ずつ入っている。恋人つなぎのままだ。 眠っていても、眉間には薄く皺が残っている。ネクタイの結び目は緩み、前髪が額へ落ちていた。 そっと手を抜こうとすると、指に力が入った。 「……真尋」 寝言でまで名前を呼ばれ、動けなくなる。 起きたらからかってやりたい。けれど今は、空いた手で額の髪を払った。 昨夜、惚れ直したと言ったのは朔弥さんだった。 私も同じだとは、まだ教えない。 起こさないよう身体を動かした時、ベッド脇のスマートフォンが震えた。 御門ホールディングスの法務部長からだった。 「朝早くに申し訳ありません。社長はそちらにいらっしゃいますか」 「います。何かありましたか」 私の声で、朔弥さんが目を開けた。 すぐにスマートフォンを受け取り、通話をスピーカーへ切り替える。 「話せ」 『先ほど、区役所への確認が取れました』 法務部長は、そこで言葉を止めた。 『昨日付で、社長と高瀬さんの離婚届が受理されています』 何を言われたのか、すぐにはわからなかった。 「受理って……」 自分の声が、ひどく遠く聞こえる。 「私たち、離婚したんですか」 「していない」 朔弥さんが即座に否定した。 けれど、電話の向こうから返ってきた声は重かった。 『届出には、お二人の署名と証人欄が揃っていました。形式上の不備はありません。窓口へ持参したのは、ご本人たちではなく使者です』 「誰だ」 『窓口で本人確認を受けた人物は、御門冴子様です』 朔弥さんの手から、スマートフォンが落ちかけた。 あの離婚届だ。 私が署名して、朔弥さんへ渡した紙。 屋敷の書斎にしまわれ、記事へ写真を流された、あの原本。 「母さんが出したのか」 『はい。記入済みの届書は、当事者以外でも使者として持参できます。お二人から不受理の申出もありませんでしたので、窓口では受理されています』 「俺たちに離婚する意思はない」 『届出時に双方の離婚意思がなければ、離婚は無効です。ただ、受理された記載を訂正するには、家庭裁判所での手続
朔弥さんは、スマートフォンの画面を伏せた。 「見せてください」 「今は休め」 「その顔をされて、眠れると思いますか」 差し出した手に、スマートフォンが渡された。 解任が決まったわけではない。 一条家との取引継続を求める社外取締役と古参役員が、臨時役員会の招集を請求していた。 理由の欄には、株価の急落、融資交渉の中断、一条家との提携停止が並んでいる。 融資交渉の途中で席を立ち、社長が会社より私的事情を優先した、とも書かれていた。 「こんなに早く……。私の病室へ来たことまで、解任理由にするんですね」 「一条との提携を切った責任もまとめて、俺一人に負わせるつもりだ」 朔弥さんは椅子へ深く座り直した。 私の手は握ったままだったが、通知をもう一度見ようとはしなかった。 「この解任案を受け入れる」 聞き間違えたのかと思った。 「何を言っているんですか?」 「俺が残れば、一条は融資を戻さない。共同事業も止まったままだ。社員まで巻き込む」 「だから辞めるんですか」 「俺を外して提携が戻るなら、そのほうが会社にはいい」 怒っているわけでも、投げやりになっているわけでもなかった。 疲れているのだ。 会社を守るために私を後回しにし、私を選べば会社を失うと言われる。何を選んでも、誰かを傷つけるところまで追い込まれていた。 会社より私のほうが大事だと言った人が、今度は社員のために自分を切ろうとしている。 どちらも本心なのだ。 私はもう一度、通知を最初から読んだ。 「この通知、おかしくありませんか」 「どこがだ」 「後任は誰ですか」 「まだ書かれていない」 「新しい社長が、どうやって融資と共同事業を戻すのかも書かれていません」 会社を救うために社長を替える。 そのわりに、替えたあとの話が一つもない。 「一条家との提携を戻せば、融資は必ず再開するんですか」 「口頭では、そう言っている」 「書面は?」 「ない」 通知を出した役員たちは、社員を守るためだと言っている。 それなのに、雇用を守る約束さえ取っていない。 後任も決めず、融資の確約もないまま、朔弥さんだけを外そうとしている。 私は差出人の名前を見直した。 そして、あることを思いついた。 「朔弥さん」 「何だ」 「
冴子との通話が切れた直後だった。 スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。『赤ちゃんだけ、こちらへ戻してちょうだい』 耳の奥に、あの甘い声がこびりついている。 赤ちゃんだけ。 そこに私はいない。初めから、この人にとって私は、御門の子どもを産むための身体でしかなかったのだ。 下腹部が、きゅっと縮んだ。「痛っ……」 身体を丸めたとき、脚のあいだに生温かいものが触れた。 シーツについた赤を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。 ナースコールを押そうとして、一度ボタンを外した。二度目でようやく押せた。*** 看護師はシーツの赤を確認すると、表情を変えた。「担当の先生に連絡します」 担当の先生は、この病院での診察を終え、クリニックへ戻ったあとだった。「すぐに戻っていただきます。動かないでください」「赤ちゃんは大丈夫なんですか」「まだ何とも言えません」 看護師が病室を出ていくと、急に静かになった。 赤ちゃんが無事なのか、まだわからない。 先生がいつ戻ってくるのかもわからない。 朔弥さんには、知らせずに済ませたかった。 けれど、このまま黙っていて、もし何かあったら。それだけはできなかった。 電話をかけると、彼は一度の呼び出しで出た。「真尋?」 声を聞いた途端、張りつめていたものが緩みそうになった。「……出血しました」「赤ちゃんは」「まだ、わかりません。先生に連絡してもらっています」「今から戻る」 即答だった。 その向こうで、別の声が飛んだ。『社長、今ここで席を立たれたら、銀行側は交渉を打ち切ります。融資が止まれば――』 聞こえた言葉に、現実へ引き戻された。 朔弥さんは、御門を支える金をつなぎ止めようとしている。何百人もの社員と、その家族の生活がかかっている。「来なくて大丈夫です。会社にいてください」 言った瞬間、心細くなった。 本当は、今すぐ来てほしかった。 大丈夫だと言って、そばにいてほしかった。 だけど、今の朔弥さんには、社長としてやるべきことがある。 私のそばにいることではなく、融資をまとめることを選ぶべきだ。 それは、私も彼もわかっていた。 電話の向こうで、朔弥さんは黙った。 遠くで誰かが彼を呼び、別の電話が鳴っている。「朔弥さん。今は、そこにいてください」「……わかった」
「……出入りを禁止しろと?」 「はい。社員へ直接連絡することも、一族会議の名前を使うことも、全部です」 電話の向こうで、朔弥さんが黙った。 遠くで鳴る電話と、社員たちの声だけが聞こえる。 母親を切れと言っている。簡単に答えられる話ではない。 それでも、ここで引き下がることはできなかった。 私は声を落とした。 「……できないなら、私が御門を出ます。今度こそ、子どもも連れて」 電話の向こうで、朔弥さんが長く息を吐いた。 「わかった。本社にも関連施設にも入れない。社員にも直接連絡させない」 電話の向こうで、また朔弥さんを呼ぶ声がした。 「声明も止める。戻ったら、続きを話す」 今度こそ、朔弥さんは私に我慢しろと言わなかった。 *** 朔弥さんとの通話が切れてから、三時間が過ぎた。 窓の外は暗くなっていた。御門ホールディングスから訂正の声明は出たが、最初の声明を写した画像は、もう消せないほど広がっている。 夕食には、ほとんど手をつけられなかった。 ベッド脇で、スマートフォンが鳴った。 表示された名前は、御門冴子。 心臓が速く打ち始めた。 怒りは消えていない。それなのに、すぐには画面へ手を伸ばせなかった。 着信音が病室に響き続ける。 一度、着信が切れた。 すぐに、また鳴り始める。 出ないほうがいい。そう思ったのに、通話ボタンを押した。 「声明を訂正させたそうね」 挨拶もなく、冴子は言った。 「私が辞めると申し上げたことはありません」 「真尋さん、いつまで自分の勝手が通ると思っているの。あなたは御門の嫁にふさわしくないのよ」 「ふさわしくないって、どういうことですか」 「そのままの意味よ。御門のために我慢することもできず、朔弥に母親を追い出させる。そんな人を、御門の嫁とは認められないわ」 「勝手に私の退任を発表したのは、お義母様です」 「私は御門のために必要なことをしたのよ」 頭の中で、ぶちりと音がした。 何が、御門のためだ。 その一言で、私は何度黙らされてきたのだろう。 もう我慢しない。 この人が守ると言いながら何を壊したのか、全部言ってやる。 スマートフォンを握り直した。 今度は、声が大きくなっても構わなかった。
朔弥さんが病室を出てから、十分も経っていなかった。 看護師が窓のブラインドを下ろしに来た。正面玄関だけでなく、病棟の裏口にも記者が集まっているらしい。 「病室の階までは上がれませんから、安心してください」 そう言われても、廊下で足音が止まるたびに扉を見てしまう。 ベッド脇のタブレットには、城戸さんと私の名前が並んだままだった。記事の閲覧数は、画面を更新するたびに増えている。 そこへ、新しい通知が重なった。 『御門社長夫妻、すでに離婚合意か――署名済み離婚届を独占入手』 記事を開くと、見覚えのある紙が映った。 夫の氏名、妻の氏名。私の筆跡で書かれた、高瀬真尋という名前。 離婚を受け入れた日に、私が署名して朔弥さんへ渡した離婚届だった。 写真の一部にはぼかしが入っている。それでも、署名欄と日付は読めた。 記事には、御門家に近い人物の証言として、私たちは以前から結婚生活を終えることで合意していたと書かれている。その直後から、私が城戸さんのホテルへ出入りするようになった、とも。 仕事の打ち合わせで会った日まで、密会に変えられていた。 私を知らない人がこれを見れば、信じるだろう。 離婚が決まった妻が、取引先の男へ走った。お腹の子の父親まで、その男かもしれない。 署名入りの離婚届は、その筋書きを信じさせるには充分だった。 タブレットの縁を強く握った。硬い角が手のひらへ食い込む。 あの日、私は城戸さんのために離婚届へ署名したのではない。朔弥さんから離婚を告げられ、受け入れるしかないと思ったから書いたのだ。 私が結婚を諦めた日の痛みを、不倫の証拠に使われている。 スマートフォンが鳴った。朔弥さんだった。 「記事を見たか」 「はい。この写真、本物です」 「俺が持っていた離婚届だ」 「どこに置いていたんですか」 「屋敷の書斎だ。鍵のかかる引き出しに入れていた」 朔弥さんの後ろで、何人もの声と電話の音がしている。もう会社へ着いたのだろう。 「あの部屋へ入れる人は?」 返事が遅れた。 「……母さんは、屋敷中の予備の鍵を管理している」 「では、お義母様が流したんですか」 「まだ断定はできない」 以前なら、その言葉だけで、また母親をかばうのかと思っただろう。 「だが、母さん以外に離婚届の
すぐには答えられなかった。 悪いところなら、いくらでも浮かぶ。 何も説明せずに離婚を告げた。一条さんを私の下につけ、問題を起こすたびに私を責めた。城戸さんとの関係を疑い、妊娠がわかると、今度は榊原さんへ私の仕事を渡そうとした。 守るためと言いながら、私の仕事も、家も、結婚まで取り上げようとした。 「妊娠がわかった後、榊原さんへ私の仕事を渡す案を認めたのも、あなたです」 「ああ。負担を減らすつもりだった。榊原が澄麗の依頼で君の席を狙っていたとは知らなかった」 「知らなくても、仕事を渡したのはあなたです」 「そうだ」 言い訳をしないところは、いいところに数えてもいいのだろうか。 だけど、同じくらい、大好きだと思うところもある。 社長室で抱き合ったこと。二人で並んで戦った株主総会。不妊治療で何度も傷ついて、それでも二人でここまで来た。 私が眠れない夜は、眠ったふりをしても気づく。私が大丈夫だと言っても、無理をしていればすぐにわかる。 それに、赤ちゃんの心拍を初めて聞いた時の、あの顔。 泣いていないと言い張りながら、私の肩へ顔を伏せた。 さっきも、一条家を敵に回して、私と子どもを家族だと言った。 つらかったことと、幸せだったことを、もうきれいに切り分けられなくなっていた。 ひどい人だ。今もあのときのことを思い出すと腹が立つ。 それでも、やっぱり好きだった。 許さないまま、この人から離れたいわけではない。 でも、ここで許すと言ったら、私が傷ついた時間まで簡単に終わってしまう気がした。 どうするべきなんだろうか。 朔弥さんに手を握られた。 何も言わず、私をじっと見つめている。 急かされてはいない。それでも、何か答えなければと思った。 「私は――」 激しいノックと同時に、病室の扉が開いた。 「社長、失礼します」 秘書室の若い社員が、息を切らして立っていた。手にしたタブレットを胸の前で抱えている。 「社長、記事が出ました」 「何の記事だ」 「奥様と城戸社長が不倫関係にあり、お腹の子も城戸社長の子ではないかと」 「違います」 思わず、朔弥さんを見た。 以前、城戸さんとの関係を疑われたことを思い出した。 「……わかってる。疑ってない」 「はい」 握られた手に力がこ
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は







